ツイッターをやめる。
昨日、ツイッターのアカウントをふたつほど消した。
どちらとも2年以上恒常的に使用しており、削除となると「今まで築き上げた関係が…」などと二の足を踏み続けてきたのだが、昨日ふいにあんなものに時間を浪費している自分が馬鹿馬鹿しく思えてきて、削除に踏み切った。
削除してしまえば案外なくても過ごせるものである。
ツイッターは面白い。
タイムラインでは他人の内言語(ツブヤキ)が有象無象に飛び交っている。
他人のツブヤキに触発されて、私たちは共感したり意見したり、時には批判もしたりする。
タイムラインは自分が作り上げた自分だけの「箱庭」であり同時にまた自身の属するコミュニティでもある。
だから、ツイッターを見ていると安心する。そこにはいつも誰かしら他者がいて、自分はそこにログインしている限りコミュニティに参加している気分になるのだから。
しかし、ツイッターはあくまで匿名の、バーチャルな世界でのコミュニケーションにすぎない。
そこでは現実とは乖離した人格を装うことは容易である。
ツイッターを始めてから、自分の意思とは無関係に徐々に「ツイッターでの人格」のようなものができあがってきたように思う。それは普段の自分より幾分か攻撃的でシニカルであった。
これ以上続けたら益々攻撃的でロクデモナイ人間になってしまうのではないか、という危惧がツイッターをやめることにした理由の一つである。
私がツイッターをやめたもう一つの理由は、監視社会からの逃亡を図りたかったからである。
自らが監視されるのはもちろん嫌だ、しかし同時に他人を監視するのにももういい加減ウンザリしたのだ。
常に他者との繋がりを求めること、それは他者の目を気にし、気にされることである。相互監視、とでも言おうか。
ツイッターのタイムラインは相互監視の場であった。
そして他者のツブヤキと自分を比較し、落ち込んだり優越に浸ったりするのである。見なければしなくて済む気苦労を、愚かな私は積極的に買っていたのだ。
144字という短い文章で一体その人全体の何パーセントが伝わるというのだろう。一つのツブヤキをその人の全体と思い、傷つき、涙を流したことだってあった。
他者を理解するためには、144字では不十分だ。
私はこの数年間、あまりにも他人のツブヤキに惑わされすぎた。
もういい加減、自分の軸で生きよう。
誰が何を言おうと関係ない。
自分の感性を信じて、生きていきたい。
あまりにもエキセントリックなアイドルたち
欅坂46『エキセントリック』のフルMVが公開された。
初めてMVを見たとき、息がつまりそうな心地がした。
とてもではないが「可愛い」という言葉で形容できる代物ではない。
それはあまりにもグロテスクだった。
教室で靴を振り回すシーンなんて完全に狂気じみている。
まるでゾンビのように無表情でゆっさゆっさと身体を揺さぶるアイドルたち。
彼女らの「人間らしさ」は『サイレントマジョリティ』、『不協和音』、『エキセントリック』と、順を追うごとに徐々に剥奪されて行くように思われる。
『サイレントマジョリティ』、『不協和音』そして『エキセントリック』。
この三者に通底するのは「反体制」の色である。
しかし、同じ反体制派の曲の中でも『エキセントリック』は「グロテスクさ」において群を抜いている。
わかってもらおうなんてムリなんだ
この歌詞が象徴するように、『エキセントリック』では社会と自分との間に存在する隔たりを認め、諦めている。
前者二曲で表明された必死な社会への抵抗はまだ、社会への期待を持つ言葉で溢れていた。「声をあげれば社会は変えられる」という期待の篭った言葉だった。
一方で『エキセントリック』という曲に終始漂うのは無力感、虚無感、絶望感である。
闘いを挑み、敗北した後のアナーキーな感情。
ヤケクソになって酔いしれた末に出てきた言葉が「アイ・アム・エキセントリック」なのではないだろうか。
変わり者で良い
と、欅坂46は、秋元康は、あまりにもヒステリックに「変わり者」を排除する社会に提唱した。
彼女らの骨太で狂気じみたパフォーマンスは、現代人の心にどのくらい刺さっていくのだろう。
あまりにも斬新でエキセントリックなアイドルたち。
いつの時代も目を惹き心を奪うのは「変わり者」である奴らなのだと思う。