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自称コミュ障さんはコミュ障ではない話

コミュ障という言葉で自虐的に自分を形容する人は少なくない。

 

しかし『「コミュ障」の社会学』(貴戸、2018)が指摘するところによると、コミュ障の人は非社会的存在だからコミュ障なのではなく、むしろ相手や社会における自分の振る舞いを想像できるという点において社会的な存在なのだ(※意訳)という。

 

自称コミュ障の方の自覚症状として多く挙げられるのはおそらく「会話のぎこちなさ」ではないだろうか。

 

会話を続けることにものすごいエネルギーが必要、相手の反応が気になって何を話せば良いかわからなくなる、話題をどう広げて良いのかわからない、中身のない会話を永遠に続けられるパリピが羨ましい…等等、これらは皆、自分が相手に求められることを頭の中で考えすぎてしまうがゆえの悩みである。

大抵の彼らの悩みは想像力がいささか豊かすぎるところに起因するのだ。

 


私も決して例外ではない。

中学2年のときの私は大して仲良くもないクラスメイトとの会話におけるこの沈黙が耐えられなくて、班で給食を食べる際はいつもビクビクしていた。

つまらない奴だと思われたらどうしよう、と思うと何を話したら面白いのか全くわからず、結果沈黙が続いてしまうのである。たまに相手側から発せられる言葉にも、全力で同意はするものの、そのあと何を言えば彼、彼女が喜んでくれるのか分からずドキドキして俯いている間にそのまま話題は立ち消えてしまう。

そんなわけで中学2年のときの私は対人関係が怖くて怖くて仕方がなかった。

どうして周りの人は自然に会話ができるのだろう、私はおかしいのではないか、と本気で悩んだものである。

 

しかし、会話をうまく弾ませようという考えは、極めて独りよがりな発想である。

よほど気の合う人間でない限り、会話における沈黙や齟齬は誰の間にも存在するものだ。その沈黙や齟齬はどちらが悪いなどという問題ではない。

そもそも会話は二者、あるいはそれ以上の人間が相互に相手への同意や共感を織り込みながら自分の意見を重ねていく作業であり、理想的な一続きの物語を美しく紡ぐ作業ではないのだ。

 

相手の考えていることなど、どんなに想像したところで分かるわけがない。

だから会話は共通の興味対象に落とし込むことに成功すれば弾むし、失敗すれば誰だってぎこちなくなるものなのである。

 


ところが自称コミュ障さんは、相手の考えを正確に読めない自分を責める。

どんな人間にとっても絶対に遂行不可能なことをできないと嘆く。

会話の続行を先程の中2の私のように恐れ、沈黙をつくる。

そして沈黙に耐えられない彼らはやっぱり自分はコミュ障だと嘆くのである。

 


会話がぎこちなくなってしまう自分を自覚し、コミュ障を自称する方々がもし私の意見を聞きいれてくださるのなら、私は彼らに「貴方はコミュ障ではない」とはっきりと伝えたい。

貴方が作った沈黙を相手がどう思うかはわからないし、貴方が口にした言葉を相手がどう受け取るかを知ることなど不可能なのだ。

もしかしたら貴方が思うほど相手は不快に思っていないかもしれない。きっとそうにちがいない。

コミュ障を自称する友人との会話で不快になったりなど普通しないでしょう?(する人もいるのかもしれないが少なくとも私はたとえ口下手な友人でもコミュ障だとは思わない。)

 


会話の中に生んでしまった沈黙が耐えられないと思うのは紛れもなく貴方なのだ。

その気まずさを相手も自分同様に共有していると思わなくて良いのである。

相手にどう思われるかなどいくら想像したところで分かりっこないのだから相手の言葉から自分の言えそうなこと、興味のあるところを拾って好きなように話せば良いのだ。

それが自慢話や相手へのマウンティングにならなければ相手は不快感を示すことなく聞いてくれるであろう。

 

自称コミュ障さんの想像力は社会でやっていくには十分すぎるものであり、決して対人スキルが低いわけではないのだと私は声を大にして言いたい。