死にたい気持ち
某SNSで友人のアカウントを見ていたら、「友だちが鬱病患者出てる部署に配属になった、社会人の闇」と行った内容の投稿がされていた。
ああ、鬱病は、普通の健康的な人たちにとっては全く縁遠いものなのだ、
としみじみ思った。
私はここ1年以上、精神的に不安定である。
メンタルクリニックにも何度かお世話になっている。
一度悲しみの波にさらわれてしまうと、文字通り自分の感情に溺れ、呼吸ができなくなってしまう。
自分と他人の間に高い高い壁があるように思え、自分には何の価値もないように感じ、脳内は死にたいという感情にのみ支配される。
「死にたい」という本心を苦し紛れに言葉にすれば、周りは悲劇のヒロイン語りと言って嘲笑したり説教をしてきたりした。
しかし、あの頃は本当に死にたかったのだ。
他者に何かを言われるたびに益々何もしない自分を、死ねない自分を意気地なしだと嫌悪していく一方だった。
大学に行くのをやめ、趣味を持ち、だいぶ楽になった今、こうして振り返るとやはり私の心は少し不調であった(今も決して元気なわけではない)と思う。
しかし、今と昔で違うのは決して自分だけが病んでいるとは思わないところだ。
皆それぞれに心に何かしらの軋轢を抱えていて、今のリズムが崩れてしまえば、いとも簡単に病気になってしまう人はきっとたくさんいるのだと思う。
自分は何のために生きているのか
この問いを本当は誰もが心のどこかには持ち続けているのではないだろうか。
しかしその気持ちに気づき、対峙してしまえば一気に深淵にまで到達してしまう。
それが怖いから、皆その問いは見て見ぬふりをして、日々をやり過ごしているのではないか。
今まで周りから外れてしまうのが怖くて、必死でしがみついてきたけれど、ギリギリまでもがいてみたけれど、心の病気に罹って、遂にズレてしまった。
しかし、ズレを認めてしまえば案外楽なのだということに最近気がついた。
だから秋元康のエキセントリックには共感で痺れてしまうのである。(やはり彼は天才であり、覚醒者であると思うのだが、その手の話はまた別の折に書き留めようと思う。)
ワシはワシで良いのだ。
だからあなたもあなたで、それで良いのだ。
一番落ち込んでいるときに、赤塚不二夫の天才バカボンを読んで、心が救われたセリフである。
私は私で、それで良いし、たぶん私であることが私が存在する意味なのだと思う。
そう思うと、いくばくか心が軽くなった心地がした。