自意識のカタマリ。

自意識こじらせ日記

心の病気

9月に入ってから、メンタルの調子が良くない。

昨年もそうだった気がする。

 

ちょっとしたことで胸がドキドキして、我慢ができなくなる。涙が止まらなくなる。自分はおかしいのではないかという不安が頭を常に支配している。

 

通っていたメンタルクリニックの順番待ちができなくて、新規のメンタルクリニックに予約をとってもらい行った。

私は事細かに事情を説明する。

なるべく正確に、被害妄想と思われないように、そう思うと説明が長くなる。

過去の記憶を掘り出す作業はまだ治っていない心の傷を抉る。

 

私は医者に、はっきりと病気だと言って欲しかった。

貴方は精神的に今は異常だから、休みなさい、治療をすれば治りますよ、と言って欲しかったのだ。

 

しかし、医者はそう簡単に病気だなんて言ってはくれない。

「病気なのかなって、病気なら病気だとはっきり言ってもらいたくて…甘えだと思うんですけど」

という私の言葉に

「病気ではないですね…」

と無表情で返された。

そうだよね〜と思う反面、病気であることへの期待が絶望に変わり、私は居ても立っても居られなくて診療所から飛び出して母に縋り付いて泣き崩れた。

私のこれは病気ではないのだ、もっと精神の病とは重いものなのだ、私は甘えているだけなのだ、そういう気持ちで頭がいっぱいになり、今すぐここから逃げ出したくて死にたいと思った。

私のことを病気にしてくれる医者は多分何処にもいないと思う。

私は病気であるように振る舞えるほど厚かましいわけではない。

 

私みたいに病気だと認められず、得体の知れない心の痛みに苦しんでいる人はたくさんいるのかも知れないと思う。

病気であることを認められず、自分を責め続け、本当に死んでしまう人たちが、いるのかもしれないと思う。

元気な人には分からない。

 

しかしとりあえず人は信用できなくとも処方された薬を飲めば気分は落ち着くのだ。

胸がドキドキしてくると薬袋に手が伸びる自分を自覚して、ああ愈々病気かも知れないなぁと思う。

 

 

 

 

 

デジタル化の波の中で

昨日、六本木で開催されている『少年ジャンプ展vol.1』に行った。

今回の展示では、創刊から1980年代までの代表的な作品が取り上げられている。

95年生まれの私にとって、80年代までの漫画はアニメの再放送でチョロっと触れた程度であり、正直なところあまり馴染みの深い作品群ではなかった。

しかし大学生になってアニメから入り、ハマってしまった『ストップ!ひばりくん』の原画が見れるという情報を知り、居ても立っても居られなくなって公開初日から一人場違いな格好で、ノコノコと六本木に足を運んでしまったのである。

 

2000円払って高速エレベーターに乗り、森アーツセンターギャラリー52階に到着すると、当然ではあるがそこには少年ジャンプの世界が広がっていた。

 

簡単な作品紹介のパネルとともに、当時の原稿が当時のままの状態で展示されている。

どの作品の原稿も一枚一枚、精細なペン入れが施され、カラーイラストにはさらに丁寧に色が塗られていた。

生の漫画の原稿をまじまじと見たことなどなかった私は思わず釘付けになった。

紙やインクの質感からは、それぞれの作者の個性が滲み出ていた。

枠外にある鉛筆でのネームの下書きや、ホワイトで修正した痕跡もまた一興であった。 

 

 

やはり「ホンモノ」には「複製」にはない価値がある。

 

今回の展示を見に行って、強くそう感じた。

漫画の原画には、少年誌や単行本でそのページを「読む」だけでは感じ難い魅力がある。パワーがある。作者の息遣いが垣間見える。

 

私が今回の企画展で払った2000円は世界に一枚しかない、作者の手がかかっている「原画」を、ほんの少しの間でも感じるための対価だったのだ。

それは、ルーブル美術館からやってきたホンモノの『モナ・リザ』をわざわざ見に行くのと同じ事なのである。

 

世界に一枚しかない原稿。

そこには作者の筆圧が、息遣いが、生の感触が存在する。

これは、紙だからこそできる技なのではないかと思う。

 

どの分野でもデジタル化の進む今日の社会。

出版業界も例に違わず、どこもかしこもデジタルデジタルと口を揃えて声高に主張する時代である(ように会社説明会や選考に参加して感じた)。

無論、これは制作の方ではなく、消費形態においてのことではあるが、おそらく制作側においてもデジタル化は着実に進行しているだろう。

 

しかし、手書きの原画が持つ魅力は、デジタルの原稿をいくら上質な紙とインクを使用して「プリントアウト」しても表現不可能であるように思う。

キーボードで「コントロール+ゼット」を同時に押せば一つ前の作業はなかったことにできるデジタルは、修正液を何度も塗り重ねるアナログよりも遥かに手軽で効率的である。

しかし、エアコンの効いた涼しい部屋でパソコンに向かってスマートに作業したところで、果たして80年代に人気を博した骨太な「スポ根漫画」は生まれるだろうか。

あの今にも汗の匂いが漂ってきそうな暑苦しい絵柄は、デジタルでは生まれ得ないのではないか。

流行らないから描かないのではなく、最早描くことが不可能なものとなっているのではないか。

あまりにも丁寧で、個性豊かな原画たちを目の当たりにして、心には上記のような思いが浮かんできた。 

 

社会はデジタル化が進行し、益々賢く、スマートになってきている。それは大変素晴らしいことである。

デジタル化が悪いとは決して言わない、しかし、アナログな手法には、デジタルでは代替不可能な価値が確かにあるのだ。

 

死にたい気持ち

 

SNSで友人のアカウントを見ていたら、「友だちが鬱病患者出てる部署に配属になった、社会人の闇」と行った内容の投稿がされていた。

 

ああ、鬱病は、普通の健康的な人たちにとっては全く縁遠いものなのだ、

としみじみ思った。

 

私はここ1年以上、精神的に不安定である。

メンタルクリニックにも何度かお世話になっている。

一度悲しみの波にさらわれてしまうと、文字通り自分の感情に溺れ、呼吸ができなくなってしまう。

自分と他人の間に高い高い壁があるように思え、自分には何の価値もないように感じ、脳内は死にたいという感情にのみ支配される。

「死にたい」という本心を苦し紛れに言葉にすれば、周りは悲劇のヒロイン語りと言って嘲笑したり説教をしてきたりした。

しかし、あの頃は本当に死にたかったのだ。

他者に何かを言われるたびに益々何もしない自分を、死ねない自分を意気地なしだと嫌悪していく一方だった。

 

大学に行くのをやめ、趣味を持ち、だいぶ楽になった今、こうして振り返るとやはり私の心は少し不調であった(今も決して元気なわけではない)と思う。

 

しかし、今と昔で違うのは決して自分だけが病んでいるとは思わないところだ。

皆それぞれに心に何かしらの軋轢を抱えていて、今のリズムが崩れてしまえば、いとも簡単に病気になってしまう人はきっとたくさんいるのだと思う。

 

自分は何のために生きているのか

 

この問いを本当は誰もが心のどこかには持ち続けているのではないだろうか。

しかしその気持ちに気づき、対峙してしまえば一気に深淵にまで到達してしまう。

それが怖いから、皆その問いは見て見ぬふりをして、日々をやり過ごしているのではないか。

 

今まで周りから外れてしまうのが怖くて、必死でしがみついてきたけれど、ギリギリまでもがいてみたけれど、心の病気に罹って、遂にズレてしまった。

しかし、ズレを認めてしまえば案外楽なのだということに最近気がついた。

だから秋元康のエキセントリックには共感で痺れてしまうのである。(やはり彼は天才であり、覚醒者であると思うのだが、その手の話はまた別の折に書き留めようと思う。)

 

 

ワシはワシで良いのだ。

だからあなたもあなたで、それで良いのだ。

 

一番落ち込んでいるときに、赤塚不二夫天才バカボンを読んで、心が救われたセリフである。

 

私は私で、それで良いし、たぶん私であることが私が存在する意味なのだと思う。

そう思うと、いくばくか心が軽くなった心地がした。

ツイッターをやめる。

 

昨日、ツイッターのアカウントをふたつほど消した。

 

どちらとも2年以上恒常的に使用しており、削除となると「今まで築き上げた関係が…」などと二の足を踏み続けてきたのだが、昨日ふいにあんなものに時間を浪費している自分が馬鹿馬鹿しく思えてきて、削除に踏み切った。

削除してしまえば案外なくても過ごせるものである。

 

ツイッターは面白い。

タイムラインでは他人の内言語(ツブヤキ)が有象無象に飛び交っている。

他人のツブヤキに触発されて、私たちは共感したり意見したり、時には批判もしたりする。

タイムラインは自分が作り上げた自分だけの「箱庭」であり同時にまた自身の属するコミュニティでもある。

だから、ツイッターを見ていると安心する。そこにはいつも誰かしら他者がいて、自分はそこにログインしている限りコミュニティに参加している気分になるのだから。

 

しかし、ツイッターはあくまで匿名の、バーチャルな世界でのコミュニケーションにすぎない。

そこでは現実とは乖離した人格を装うことは容易である。

 

ツイッターを始めてから、自分の意思とは無関係に徐々に「ツイッターでの人格」のようなものができあがってきたように思う。それは普段の自分より幾分か攻撃的でシニカルであった。

これ以上続けたら益々攻撃的でロクデモナイ人間になってしまうのではないか、という危惧がツイッターをやめることにした理由の一つである。

 

私がツイッターをやめたもう一つの理由は、監視社会からの逃亡を図りたかったからである。

自らが監視されるのはもちろん嫌だ、しかし同時に他人を監視するのにももういい加減ウンザリしたのだ。

 

常に他者との繋がりを求めること、それは他者の目を気にし、気にされることである。相互監視、とでも言おうか。

 ツイッターのタイムラインは相互監視の場であった。

そして他者のツブヤキと自分を比較し、落ち込んだり優越に浸ったりするのである。見なければしなくて済む気苦労を、愚かな私は積極的に買っていたのだ。

 

144字という短い文章で一体その人全体の何パーセントが伝わるというのだろう。一つのツブヤキをその人の全体と思い、傷つき、涙を流したことだってあった。

 

他者を理解するためには、144字では不十分だ。

私はこの数年間、あまりにも他人のツブヤキに惑わされすぎた。

 

もういい加減、自分の軸で生きよう。

誰が何を言おうと関係ない。

自分の感性を信じて、生きていきたい。

 

あまりにもエキセントリックなアイドルたち

欅坂46『エキセントリック』のフルMVが公開された。

 

初めてMVを見たとき、息がつまりそうな心地がした。

 

とてもではないが「可愛い」という言葉で形容できる代物ではない。

それはあまりにもグロテスクだった。

 

教室で靴を振り回すシーンなんて完全に狂気じみている。

 

まるでゾンビのように無表情でゆっさゆっさと身体を揺さぶるアイドルたち。

彼女らの「人間らしさ」は『サイレントマジョリティ』、『不協和音』、『エキセントリック』と、順を追うごとに徐々に剥奪されて行くように思われる。

 

サイレントマジョリティ』、『不協和音』そして『エキセントリック』。

この三者に通底するのは「反体制」の色である。

しかし、同じ反体制派の曲の中でも『エキセントリック』は「グロテスクさ」において群を抜いている。

 

わかってもらおうなんてムリなんだ

 

この歌詞が象徴するように、『エキセントリック』では社会と自分との間に存在する隔たりを認め、諦めている。

 

前者二曲で表明された必死な社会への抵抗はまだ、社会への期待を持つ言葉で溢れていた。「声をあげれば社会は変えられる」という期待の篭った言葉だった。

 

一方で『エキセントリック』という曲に終始漂うのは無力感、虚無感、絶望感である。

闘いを挑み、敗北した後のアナーキーな感情。

ヤケクソになって酔いしれた末に出てきた言葉が「アイ・アム・エキセントリック」なのではないだろうか。

 

変わり者で良い

と、欅坂46は、秋元康は、あまりにもヒステリックに「変わり者」を排除する社会に提唱した。 

彼女らの骨太で狂気じみたパフォーマンスは、現代人の心にどのくらい刺さっていくのだろう。

 

あまりにも斬新でエキセントリックなアイドルたち。

いつの時代も目を惹き心を奪うのは「変わり者」である奴らなのだと思う。